生のラブカを見て興奮冷めやらぬ中、
(その様子はこちらの記事を参照⇩⇩)
その帰路の途中でまたしても驚きのツイートが飛び込んできました。
深海の古代サメ、ラブカを搬入‼️
— 和歌山・串本海中公園 (@KushimotoMP) 2020年1月16日
体長1.2mほどのオスで、勝浦沖・水深550mの深海から引き上げられました。水族館内の砂場水槽にて展示中です。
残念ながら長くはもたないと思います。#ラブカ pic.twitter.com/SMDpT7yHQ9
!?!?!!
あまりにもタイムリーすぎてビックリ。。。
しかも一緒に掲載されている動画の生き生きとした姿はインパクト大!!
ただツイートの内容と同時にリプ欄も目に止まりました。
というのも八景島のラブカ展示ツイートには全くなかったようなリプライがこの串本海中公園のツイートでは目立っていたからです。
ではどんな意見が送られていたのか、
まぁ言い方は様々でしたが要約して一言で表すなら「かわいそう」です。
もっとキツい言い方をすると「酷い」という意見もちらほら。
水族館にとっては最もと言っても過言ではないくらいお客さんに抱かれたくない・抱かれてはいけない感情だと思います。
ただ普通に考えたらそう感じるのも無理はありません。
深海に住んでいた魚が人に釣り上げられて、短い命と知られながらも水槽に入れられて死ぬまで展示させられるわけです。
ただこの意見が適用されるのは何もラブカに限ったことではないですよね。
水族館にいる生き物全般に対して言えることです。
(水族館生まれの生き物たちは今回ちょっと置いておきます)
まぁ死んでしまうまでの期間は確かにラブカなどの生物の方が圧倒的に短いですが、
水族館で飼育展示されている生き物の多くは(種類にもよると思いますが)、自然界で暮らすより寿命が短くなっていると思います
(逆に天敵がなどがいなくなって長くなっている生物もいると思いますが、とくにデータを参照したわけではないので間違っていたらすいません)。
では水族館で暮らしている生き物たちは果たしてかわいそうなのか?
今回はこれを一つの大きなテーマにして考えていきたいと思います。
※筆者の主観で考えたことをツラツラと書いています。
あらかじめご了承ください。
貴重生物(ラブカ)を展示する意義とは
とりあえず水族館で暮らしている生き物全てに目を向ける前に、まずは今回のラブカについて状況を整理してみたいと思います。
この串本海中公園のラブカ展示についてかわいそうだという印象を持った人たちがどこまで考えて、知ってて、何に対して、その印象を持ったのかはわからないですが、
次の2点は今回のことを考える上で重要なポイントなような気がします。
・あのラブカは漁で混獲されたということ
・海に帰しても長く生きられないということ
もちろんこれら(とくに2点目)が紛れもない事実という保証はどこにもないですが、
水族館のゲリラ的な貴重生物の展示のほとんどはこれに該当すると思うので、今はこれが事実だったと仮定して話を進めていきます。
先の人たちがこの2点に対してかわいそうと言っているならそれは最もな意見だと思います。
なんせ自分たち人間が食べる魚を獲る際に、運悪く掛かってしまい引き揚げられてダメージを受けたのですから、ラブカからしたら悲劇です。
しかし問題はここからです。
生命活動に関わる致命的なダメージを与えてしまった生き物を自然界に帰すのか、
少しでも安全な場所で飼育・展示を通して最期を迎えさせるのか。
これが意見の分かれ目になりました。
確かにそのまま海に帰していれば、
釣り上げられた際の負荷だけで、水族館への輸送の負荷はかからず、飼育下より多少は長く生きられたかもしれません。
ただ、水族館好きとして後者に補足をするならば、
ラブカはまだ謎が多い生き物なので飼育・観察などの研究を通して、今まで謎であった生態が解明されたり、新たな発見があって、それがもしかしたら人類にとって有益な結果を生む可能性だってあるかもしれません。
もちろんこの繰り返しによって研究が進めば、ラブカの長期飼育だって実現するかもしれないですし、それによって今後同じような事故が起きても保護して回復させて自然に帰すことだっていつかできるようになるかもしれません。
また、視点を研究ではなく展示に変えてみれば、生きたラブカを見た人たちが何らかの影響を受け、海や生き物に関心を持って環境問題に取り組んだり、まだ将来のある世代が自分の進路をこういった業界に見据えるきっかけになる可能性だってあります。
どれも僅かな可能性ではあると思いますが、
このように挙げたらキリがない様々な可能性が飼育・展示するという選択肢には内包されています。
そしてそれは何もラブカに限ったことではなく、水族館にいる生き物全てに当て嵌まることであり、水族館の持つ大切な機能の一つでもあります。
まぁ串本海中公園(やシーパラ)がどういった狙いを持ってラブカを展示していたのかはわかりませんが、ここに述べたような狙いは少なからずあったと思います。
ここまで考えてみると、
水族館がなぜ展示という選択肢を選んだのか少し理解ができたんじゃないでしょうか。
(ただ、全て人間のエゴじゃないかと言われたら何も反論できません)
しかし先にあげた2点の前提が崩れると話は変わってくるような気がします。
もし混獲という偶然の捕獲ではなく、(できるかどうかは別として)ラブカの一点狙いで捕獲を試み、それによって傷を負わせ展示したとすれば、これは多くの方に酷いと捉えられるでしょう。
逆に混獲したもののほぼ無傷であり、リリースすればまだ自然界で普通に生きていける貴重生物を、その生き物にとって万全ではない環境で展示してすぐに死なせてしまったら、これも当然のように酷いと捉えられるでしょう。
さっきは話をわかりやすくするために事実だと仮定しましたが現実は違います。先も述べた通り、この2点が事実だという保証はどこにもないのです。
まぁ混獲に関しては事実確認が可能ですが、先が短いかどうかは事実確認が不可能です。
間違いなくダメージやストレスはかかっていますが、その度合いやその状態で自然と飼育下どちらの方が長く生きらえるかを船上で即座に知る由はありません。
とはいえほとんどの場合、とくにラブカなどの深海生物に限っては引き揚げられた時点でかなりの負荷がかかっているのは間違いないと思います。
さて、ここまで考慮してみると今回の串本海中公園のツイートに対して様々な意見が飛び交ったのにも理解ができます。
なんせ先の2点を前提とするかどうかによって見方が大きく変わってくるのですから。
そして例のツイートではこの2点を明記していなかったために、水族館好き魚好きの方のみならず、様々な方から意見が飛んできたのだと思います。
水族館や魚が好きな方はこういった貴重生物の展示例には馴染みがあり、この展示に至る背景(先の2点)がとくに明記されていなくても理解できたと思うのですが、特に水族館に関心がない人たちは文面から推測する他ありません。
(どんな背景があるにしろ生き物を展示するという行為(水族館・動物園)自体に否定的な方もいるでしょう)
ただ、形はどうであれラブカの展示を通して水族館が世間からここまで注目されたというのは良かったかなと思います。
しかしだからこそ水族館側もこういったケースを取り扱う場合は慎重になるべきだなと思いました。
ちなみに僕は先の2点を前提とした貴重生物の展示にはとても意義があると考えています。
ただ、どちらか一つでも前提からかけた貴重生物の展示だったら、今回多く寄せられていた「かわいそう」というイメージを筆者も強く持っていたでしょう。
しかし、可哀想だったら見に行かないのかというとそういうわけではありません。
どういう背景があるにしろ、先が短いとわかっている生物が展示され、自分が駆け付けることのできる状況だったら見にいくと思います。
それが水族館で展示された生き物に対して、自分が行えるアクションの最初の一歩だと思っているからです。
(何もこれは貴重生物に限らず、展示されている全ての生き物に対して言えます。)
そしてそういった生き物たちに対して自分は果たして何をしてあげられるのか、考える・行動することが大切だと思っています。
もちろんその契機を与えてくれた展示生物には感謝でいっぱいです。
展示に至るまでのプロセスや、展示への批判はその後だと自分は思います。
水族館の行動理念が自分にとって納得のいくものだったら、そういった場を提供している館の姿勢には感謝するものがあるだろうし、
納得のいかないものだったら今回のように意見を直接水族館にぶつけるのもありだと思います。
もし展示も見に行かず、そこに至るまでの背景も考慮せずに直感的に酷いなどの意見を水族館に対してぶつけているのだとしたら、それはどうなのかなと自分は思います。
ただ、誤解を生んでしまうような表現をしてしまった館側にも多少責任はあると思いますし、理解をしてもらうためにも行動理念や意図は明確に表明する必要があるなと思いました。
(言うまでもありませんが、独り言で直感的にかわいそうと発言したり思うことは個人の自由ですし、やっぱりどう考えても水族館の判断は間違っていると思って意見した方も中にはいたと思います。)
水族館の生き物たちは可哀想なのか
ラブカの展示に関して「かわいそう」という意見が出たのを見た時、
これはラブカの展示に限らず、水族館の展示の核心に触れる意見ではと思いました。
では水族館の生き物たちは可哀想なのかそうでないのか?
この問いに対する筆者の見解から先に言ってしまうと、
答えは可哀想です。
やはりどんな大義名分を掲げようと、人間のエゴで生き物たちが展示されているという事実には変わりありませんし、そこから目を背けることは自分にはできません。
さんざん水族館に楽しませてもらって様々な恩恵を受けて何を言っているんだという感じですが、だからこそ心の片隅にはこの感情がありますし、先ほども書いたように彼らに対して感謝の気持ちもあります。
ただ、彼らを見て可哀想と思うのは私のエゴです。
いやいや意外と幸せかもよと思う人もいるかもしれません。しかし彼らは幸せだと思うのもまた、その人のエゴ。。。
水槽の中にいる彼らが本当はどう思っているのか、そもそも感情なんてあるのかは我々は知る由もないです。
じゃあ結果エゴになっちゃうんだから考えるだけ無駄じゃんと思うかもれしれません。
しかし、だからと言ってエゴの2文字で思考停止して、この問いを片付けてしまってはいけないと筆者は思います。
人間の感覚で、視野で、彼らはどう感じているのかを想像し、それを踏まえて行動することが、人間のエゴで展示させられている彼らから、たくさんの恩恵を受けている自分ができる数少ない償いのようなものだと思っています。
(これもとんでもないエゴですが。。。)
※以降、水族館の生き物はかわいそうという前提で話が進んでいきますのでご了承ください。
水族館における展示の難しさ
水族館に訪れたことがある人なら一度は抱いたことがあるんじゃないんでしょうか
水槽の生き物に対して「かわいそう」という感情を。
ではどんな展示を見てそう思ったのか
大きな魚が小さい水槽に入っていた時?
ショーをしている動物を見た時?
汚い環境で飼育されている生き物を見た時?
レイアウトのない無機質な水槽で展示されていた時?
思い浮かべたシーンは人それぞれだと思います。
逆に幸せそうだなぁという感情を抱いた場面は可哀想と感じた場面より少ないと思います。
(筆者の偏見です。。。お許しを)
このように、水族館には実は生き物の数だけかわいそうが隠れているような気がします。
では水族館に訪れた際、どれもこれもかわいそうだと思わないのはなぜなのか。それは可哀想に見せない努力を水族館がしているからに他なりません。
そして私たち来館者も可哀想なものを見に行こうと水族館に足を運んでいないからです。
水族館で働く方々が自分の館で飼育展示している生き物に対してどう思っているのかはわかりませんが、
どう思っているにしろ、ほとんどの展示に対して私たちが可哀想だという第一印象を抱かないのは、その館が飼育生物に対してできる最大限の配慮を実現しようと努力した(している)賜物なのです。
水槽内に様々な自然環境を再現している水槽が多いのは、
来館者に没入感を与えるためだけではなく、そこに展示されている生き物たちのために、生息域に近い環境を試行錯誤して再現しているからに他なりません。さらに私たち来館者が見えないところでも、飼育員さんの絶え間ない努力が生き物たちには常に注がれています。
そしてこれら生き物に対して行う最大限の配慮は、生き物を扱う施設として行うべき最低限の配慮でもあると私は思います。
と同時に、これは来館者である私たちにも求められています。彼らが暮らす水族館に足を踏み入れたら、彼らに最低限の配慮として最大限の配慮をしなければいけません。
このツイートの動画や大手ネット記事などで話題になっていましたが、フラッシュ撮影の禁止はまさに生き物たちに配慮するべき最低限のマナーです。この件に関しては深く言及しませんが、郷に行っては郷に従えです。訪れた水族館の注意書きや注意事項は絶対に確認して厳守してください。
少し話が脱線してしまいましたが、
来館者が展示を見て可哀想と思うのか思わないのかの境界線は、水族館の努力にもよりますが、やはり感情なので最終的な判断は来館者の感性に大きく依存します。
客層や来館者のニーズにもよりますが、水族館にエンターテインメント性を求めてやってくる来館者にとって、可哀想(無関心)と感動は紙一重です。
すごい、綺麗、(いい意味で)気持ち悪い、感動したなどのポジティブな感情が展示に隠されている可哀想を上回れるかどうかです。
この匙加減がなかなか難しいところで、例をいくつかあげるなら一つの水槽に同種の生き物を大量に展示しているケースや動物のショーなんかが当てはまります。
前者は群れで活動している姿という感動はありますが、一方でこの大きさの水槽にこんなにたくさん詰め込められて可哀想と捉えてしまう人もいます。後者も派手な演目で感動する人もいれば、こんなことまでやらされて可哀想と感じる人もいるはずです。
またポジティブな感情もネガティブな感情も与えられなかった展示は、つまらないと判断され水槽の前を足早に過ぎ去られてしまいます。
このように来館者のほとんどは視覚でその展示生物がかわいそうかそうでないのかを判断します。
では、ビジュアル的に可哀想でないと判断されればそれはもう来館者にとって可哀想な展示に映らないのかというとそれは違います。
もう一つ来館者が展示を判断する要素があります。それがメッセージ性です。
しかしこれはすべての来館者が判断要素として使っているわけではないと思います。
展示されている生き物やショーを見て「なぜこの生き物を展示しているんだろう」と疑問に思う来館者の判断要素です。
展示の意図を考える来館者にとって、明確な意図や狙いが伝わらない展示は、見世物小屋同然の展示だと映ってしまいます。
そしてそこに展示されている生き物に対して、目的もなく見せ物にされて可哀想という感情が出てくるでしょう。これは例えビジュアル的に可哀想でなくても起こり得ることです。
しかし逆を言えば、ビジュアルを重視する来館者が可哀想(or可哀想とは感じないが一見地味でつまらない)と感じる展示でも、明確な意図がしっかり伝わり、納得のいく展示だったらメッセージ性を重視する来館者にとっては感動的な展示に映ります。
そしてビジュアル的な展示を、来館者が個々人の感性で判断するのと同様、これもまたメッセージ性があるのかないのかの最終的な判断は個々人に委ねられます。また、その意図が伝わったとしても受け取った来館者にとって説得力のないものだったら可哀想と判断されてしまうのです。
水族館の展示がいかに複雑で難しいか、こうして整理してみると自分でも驚きます。
昨今、水族館は「娯楽」施設として揺るぎない地位を確立しつつあります。休日の水族館はいつも家族連れやカップル客でいっぱいです。
その中に、展示に対してどんな意図があるか、なんてところまで考えて見てる人は割合的には少数派だと思います。
しかし、だからと言ってメッセージ性を蔑ろにしていいわけではありません。むしろこちらを大切にするべきだと思います。
近年、光や音を使った新感覚の展示がリニューアルなどでどんどん登場しています。たしかにこれらの展示はビジュアル的にポジティブな感情を創出するのにはかなり有効な手段だと思いますし、そういった展示が多数の来館者の満足度にも繋がるのは間違いないでしょう(水族館の経営上、集客効果のある戦略が必要不可欠ということも理解しています)。しかし命を展示する施設である以上、どんな展示であろうとそこにどういった意図(説得力のある)があるのかをしっかり考えて伝える努力をする必要があると僕は思います。
一方、メッセージ性を強く打ち出しやすい体験型の展示やイベントも増えてきていることも確かです。これらはポジティブな感情も創出しやすいので水族館にとって非常に重要な展示になると思います。ただ、生き物の負担にならないよう調整しなければ、こちらもたちまち可哀想に映ってしまうでしょう。
そしてこのメッセージ性というもの踏まえると、
今回私が見たシーパラのラブカ展示はややそれに欠けるかなという印象を受けました。
ホームページにも情報は載っていなかったですし、アクアミュージアムの3階に展示されているというあのツイート以外公式からの情報はありませんでした。
自分の来館当日も、公式のSNSやホームページでは展示しているのかどうかの情報を確認できず、不安だったので電話で問い合わせてから行きました。
到着後も果たしてどの水槽にラブカがいるのか一瞬迷ってしまう程案内なども一切なく、ラブカが展示されている水槽の端っこに小さい魚名板があるだけでした。
おまけにラブカが端っこでじっとしていたので尚更わかりにくかったですが、こればかりはしょうがない。
情報開示の少なさは世間から集客のためと捉えられたくなかったのか、一つの水槽に人が集中するのを避けたかったのか、
どういう意図があったのかはわからないですが、せめて展示期間中に来館してくれた方には、展示していることが伝わるような工夫をもっとしてほしかったなと感じました。
となりのラブカの冷凍標本や剥製を見て、ラブカの存在を知っていると話していたお客さんも、まさか生体が展示されているとは思わず展示水槽を横切っていましたし、知ってても見つけることができず、展示が終わってしまったと勘違いした人も多かったと思います。
せっかくの貴重展示だったので、この展示にはどういった意義があって、こういう意図がありましたということをもっと明確にしても良かったのかなと思いました。
ただ生きた状態で4日間展示してくれたシーパラと、生き抜いてその姿を見せてくれたラブカにはとても感謝しています。
串本海中公園の展示は直接見ていないので何とも言えないですが、動画を見る限り明るい水槽で展示していたのが引っかかりました。生態に詳しいわけじゃないのでよくわかりませんがとくに影響とかはないんですかね?それとも実験的な試みだったのかな。とまぁ少し気になってしまいました。
ちなみにこちらのラブカは残念なことに展示開始の翌日に死亡してしまいました。
1月16日に搬入した深海ザメ #ラブカ ですが、1月17日11:30頃に死亡を確認し、館内での展示を終了しましたことをご報告いたします。
— 和歌山・串本海中公園 (@KushimotoMP) 2020年1月17日
このラブカは、勝浦・太地町沖の水深約550メートルから釣り上げられ、深海との水圧差に死ぬことなく、生きた状態で持ち込まれた珍しい個体でした。
しかし串本海中公園は、今後のラブカの行き先や詳細なデータをTwitterで報告しており、そうした対応は素晴らしいものだと感じました。
最後に
ラブカの生体展示に対して目立っていた「かわいそう」という意見から、今回のラブカひいては水族館に暮らすの生き物たち全般にまで範囲を広げて、彼らは「かわいそう」なのかということを考察してきました。
私は今回、可哀想だという見解に至りましたが、皆さんはどう感じたでしょうか。
私と同じ見解に至った人も、そうでない人もいると思います。
ただ、重要なのは彼らに対してどう思ったかではなく、それを踏まえて私たちがどう考え・行動するかだと思っています。
とはいえ、来館者は様々な目的を持って水族館に足を運びます。
癒されたい、魚を見たい、雰囲気を楽しみたい、写真を撮りたい、挙げればキリがありません。
なので水族館の来館者はこうあるべきだ!なんてことは言いません。
どう水族館を楽しもうとそれは個人の自由ですし、皆さんの好きなように水族館を楽しんでもらいたいと、
一、水族館好きとして心から思っています。
(お前に言われなくてそうするわって感じですよね 笑)
ただ、この記事をもしここまで読んでくださったのなら、あの人こんなこと言ってたなぁと頭の片隅にでもよかったら置いといてください。
そして最後に、
繰り返しにもなりますが、どんな目的であろうと、水族館に足を運んで生き物たちを見るという行為は、私たちが展示生物に対して行えるアクションの「はじめの大きな一歩」だと筆者は強く考えています。
そしてその一歩はこの記事を読んでいるほとんどの方がもうすでに踏み出していると思います。
なので皆さんが次の一歩、すなわち水族館やそこで暮らす生き物たちに対していろんな思いを馳せたり、行動を起こしたり、
そういったはじめの一歩の先に進むきっかけに、この記事がなってくれればこれ以上幸せなことはありません。
生き物たちを可愛いと思ったり、水族館を素敵な場所だと思ったのなら、自分なりにその魅力を発信するのもいいですし、生き物のために環境問題に取り組んだり、そういったことをちょっと意識するだけだって素晴らしいことだと思います。
生き物たちが置かれている環境を直接見てかわいそうだとか酷いと思ったのなら、今回のラブカ展示のように、水族館に改善の意を込めて直接意見をぶつけてみるのもいいと思います。
このように展示生物から受け止るメッセージとその先のアクションは人それぞれです。
間違っても彼らは可哀想な生き物だから、償いの気持ちを持って彼らのために行動を起こそう!
なんてことを言いたくて筆者がこの記事を書いたわけではないということだけはご理解ください。
ここに書いたのはあくまで”筆者”が水族館の生き物たちについてどう思っているかです。
ちなみに私はその一歩として、少しでも多くの方に水族館で暮らす生き物たちを見てもらいたくて、このブログで水族館の魅力を自分なりに発信しています。
なので私のブログが、皆さんにとって少しでも水族館に足を運んでみようかなという足掛かりになっていれば幸いです。
更新速度は遅いかもしれませんが、よかったら今後ともお付き合いください。
編集後記
このブログを始めた時から、こういった水族館に対する思いみたいなのをいつか書いてみたいなと漠然と思っていたのですが、この数日の出来事(ラブカ展示やこの記事では触れなかったですが、葛西のアオザメ展示など)があったので、思わず突発的にダラダラと駄文を書いてしまいました。まだまだ水族館に対して思うところはあるのですが、今回はキリもいいのでここまで。
筆者の独断と偏見が満載でしたが、最後までお付き合いありがとうございました。